2011年5月5日木曜日

5/1,2 震災50日後の宮城県、福島県へ行きました。(2日目)

1日目夜は福島駅で宿泊。

経済的に貢献しようという言い訳のもと、地元で海産が旨いという居酒屋へ。
かつお、かんぱち、ほや貝。旨かった。

たまたま地元の人とも話が出来た。そして、とてもとても悲しい話を聞いた。

「友達が震災が起きてから東京に行ったら、自動車が福島ナンバーなだけで酷い事をされた。
だから、私は東京へは行きたいけど行けない。」

酷い事っていうのは、
・自動車を運転していると後ろからパッシングされ、抜かれ際に
「放射能浴びた福島の人間が東京に来るな。」と言われた。
・自動車を駐車し、出掛け、戻ってくると自動車の上にコンクリートが積まれていた。

そんな奴がいるらしい、都内に。
知っておかなきゃならない現実だった。



■③南相馬で受入れているボランティアに参加する。

2日目はボランティアに参加。南相馬市災害ボランティアセンターでは当日の受入れをしている。
この日は約150名ほどのボランティア志願者が集まっており、
15人前後のチームに振り分け後、チームリーダーを中心にして作業に入っていく流れであった。

ボランティア内容としては、大きく2点。
・家主さんの指示に従って家庭を復興。
・津波により河原に流れ着いたゴミを除去する。


しかし、現状、南相馬ではニーズはあるものの、諸々の事情で動けないようであった。
・当日受入れの為、現場を取仕切るリーダーがおらず管理が届かない為、現地に派遣出来ない。
⇒当日参加者の中で経験者を中心にリーダーを決める為、日によって異なる。
・家主が避難されている為、各家庭の復興作業に手を付けられない。

そんなこんだで午前中作業出来たのは150名のうち、70名程度。
残り80名は午後、仕事が降りて来る事を願って待機。僕らもその中の一組。

午後1時。結局残り80名のうち、30名分の依頼しか無かった為、
残りのメンバーは全員河原の掃除を手伝う事になった。
そうなると午前を含め河原にTOTAL80名の人間が集まる為、全体リーダーとチームリーダーを定めて作業エリアを分担する事に。

取り敢えずアグレッシブにいこうとチームリーダーをさせてもらった。
メンバーは30代~60代の11名。東京、大阪、様々な場所から参加していた。
鏡橋さん、野中さん夫妻、茅野さん、中村さん、鳴戸さん、田口さん、いっち~、よっちゃん、伊賀、僕。
チームリーダーといっても全体リーダーとチームメンバー間の伝書バトみたいなもん。

60代の鏡橋さんは1人で参加。3日間ボランティアをしに東京から来られたそう、宿泊は全て車中。
昔仕事で関わった福島県が好きで、力になりたくて、ボランティア参加されたそう。
力強かった。

現地は埃が多く、マスク・ゴーグル無しでは作業が出来ない状態。
河原に広がるゴミは藁、タイヤ、流木(めちゃめちゃデカイ)、毛布、などなど。

藁をガンジキで除去すると下からカニが出てきたり、何か動物の化石が綺麗に出てきたりと、
よく分からん状態やった。

15時30分には終わらなければいけない決まりなので時間は少なかったけど、
ただひたらすらにゴミを集めた気がする。


16時、ボランティアを終え、チームの皆さんと情報交換し、今後も連絡取り合う事を約束して、
一日を終えた。
ほんの少しのエリアやけど、綺麗になった河原を見て、とても気持ち良かった。
めちゃめちゃ大きな達成感があった。1日目の感情もあったから余計になんかな。












今回2日間の経験を通じて、大切な事は「じゃあ何すんの?」って事。

被害の規模がデカイからボランティア頑張ります。みたいなぺらぺらの正義感じゃ話にならん。
けど、今、これから、現地で、東京で、関西で出来る事をやっていこうと思う。

マキコと会った後、彼女からもらったメール
「昨日はありがとう。今日アルバムを見て、改めて、廣瀬の気持ちを受け取ったよ。
実際、被災地で活動するのは並大抵のことでは無いと思う。でも、廣瀬のような人達の力や
心は本当に必要!精一杯活動してきてください。現地で活動出来ない私の分もお願いね!
活動の様子、ぜひ聞かせてちょうだいね。」

「継続は力なり」だす。













2011年5月4日水曜日

5/1,2 震災50日後の宮城県、福島県へ行きました。(1日目)

3/11に起きた東北地方を中心に起きた東日本大震災、僕が小学校6年生の時に経験した阪神大震災を遥かに凌駕すると言われたその震災を自分の目で見たくて僕は宮城県、福島県へ向かった。

事前に同行メンバーで協議を重ね、各々が目的をハッキリさせた。
「自分の目で見たいけど、どの面下げて行けば良いか分からない。」なんて答えを無くした。

現地でする事は大きく3つ。

①仙台に住む先輩に会う。
②現地を自分の目で確かめる。
③南相馬で受入れているボランティアに参加する。

■①仙台に住む先輩に会う。
仙台市宮城野区に住む前職時代の先輩マキコ。結婚後、地元に戻り生活していた時に震災に遭った。3歳のそうた君、2011年2月に生まれたばかりのさつきちゃんと共に迎え入れてくれた。
マキコとの会話の中で特に心に残った事は3つ。
・現地の方は、震災直後、何が起きたのか数日間全く分からなかった。
⇒停電で映像が見られない為。
現時点でも避難場所で生活をされている方はTVが無いので津波の映像を知らない方が多い。
・3/11の震災に加え、4/7に起きた震度6の余震が彼女達の心に傷を負わせた。
⇒1か月経ったのに、生活もようやく戻り始めたのに、まだ続くの?・・・という不安。
・子供の頃、遊び、慣れ親しんだ沿岸部分に今は行く事が出来ない。

仙台の街はとても元気で、活力に満ちていた。
それは、震災を経験し、余震に不安を煽られ、それでも負けない。と前を向いている人が、
僕たちに元気だと感じさせせてくれているんだと思う。


■②現地を自分の目で確かめる。
仙台駅から仙台港へ向けて車で走る事20分。沿岸部分に近付いているなあと思った瞬間、
突然風景が一変した。仙台で感じなかった「地震」から「津波」の被害を目の当たりにした。
仙台港から、名取、仙台空港、亘理、相馬を見たが、津波の被害の大きさに言葉が出なかった。

ボロボロになった自動車の山、2階しか原型が無い建物。一帯に立ち込める臭い。
無造作、且、とても不自然に田んぼに横たわる自動車、漁船、流木、家。
そして住宅街だったはずの風景は、家の基盤しか残っていない。

調味料、食器、砂をかぶったアルバム、スノーボードの板。
立ち入った時に僕が他人の家に土足で足を入れてたんだと気付くほど原型は無かった。
それが360度、数kmに渡って続いていた。
亘理の防波堤では、南北に続くテトラポットが無くなった瞬間に防波堤が壊され、
5m後ろに飛ばされていた。海の波がどれほど強大だったであろうかが痛いほどよく分かった。

街によって復興へのスピードが異なる事も分かった。
メディアへの露出度、機能としての重要性により異なるようであった。
また、今、噂として挙げられている「近い将来に東北地方で大地震がもう一度来る。」
この噂が一部の方の復興へのモチベーションを下げていた。

地震後の二次災害が、阪神大震災と東日本大震災では大きく違った。
阪神大震災の「火災」が今回の「津波」にあたり、こいつがとんでもない被害を生んでいた。



でも、現地の方はやっぱり元気やった。コンビニの店員さんはとても親切で、
すれ違う土方の兄ちゃんはタバコふかして思いっきり笑っていた。



つまるところ、現地は少しずつかもしれへんけど復興に進んでいる。
1秒1秒誰かしらが復興へ向けて頑張っているからいつか復興する。
神戸の街がとても綺麗な風景のように、東北の綺麗な風景が見られる。

じゃあ、これを早めるには?一番小さな力は僕が働く事=ボランティア。


2日目のボランティアに対する意味を持つ事が出来た1日やった。