2011年5月4日水曜日

5/1,2 震災50日後の宮城県、福島県へ行きました。(1日目)

3/11に起きた東北地方を中心に起きた東日本大震災、僕が小学校6年生の時に経験した阪神大震災を遥かに凌駕すると言われたその震災を自分の目で見たくて僕は宮城県、福島県へ向かった。

事前に同行メンバーで協議を重ね、各々が目的をハッキリさせた。
「自分の目で見たいけど、どの面下げて行けば良いか分からない。」なんて答えを無くした。

現地でする事は大きく3つ。

①仙台に住む先輩に会う。
②現地を自分の目で確かめる。
③南相馬で受入れているボランティアに参加する。

■①仙台に住む先輩に会う。
仙台市宮城野区に住む前職時代の先輩マキコ。結婚後、地元に戻り生活していた時に震災に遭った。3歳のそうた君、2011年2月に生まれたばかりのさつきちゃんと共に迎え入れてくれた。
マキコとの会話の中で特に心に残った事は3つ。
・現地の方は、震災直後、何が起きたのか数日間全く分からなかった。
⇒停電で映像が見られない為。
現時点でも避難場所で生活をされている方はTVが無いので津波の映像を知らない方が多い。
・3/11の震災に加え、4/7に起きた震度6の余震が彼女達の心に傷を負わせた。
⇒1か月経ったのに、生活もようやく戻り始めたのに、まだ続くの?・・・という不安。
・子供の頃、遊び、慣れ親しんだ沿岸部分に今は行く事が出来ない。

仙台の街はとても元気で、活力に満ちていた。
それは、震災を経験し、余震に不安を煽られ、それでも負けない。と前を向いている人が、
僕たちに元気だと感じさせせてくれているんだと思う。


■②現地を自分の目で確かめる。
仙台駅から仙台港へ向けて車で走る事20分。沿岸部分に近付いているなあと思った瞬間、
突然風景が一変した。仙台で感じなかった「地震」から「津波」の被害を目の当たりにした。
仙台港から、名取、仙台空港、亘理、相馬を見たが、津波の被害の大きさに言葉が出なかった。

ボロボロになった自動車の山、2階しか原型が無い建物。一帯に立ち込める臭い。
無造作、且、とても不自然に田んぼに横たわる自動車、漁船、流木、家。
そして住宅街だったはずの風景は、家の基盤しか残っていない。

調味料、食器、砂をかぶったアルバム、スノーボードの板。
立ち入った時に僕が他人の家に土足で足を入れてたんだと気付くほど原型は無かった。
それが360度、数kmに渡って続いていた。
亘理の防波堤では、南北に続くテトラポットが無くなった瞬間に防波堤が壊され、
5m後ろに飛ばされていた。海の波がどれほど強大だったであろうかが痛いほどよく分かった。

街によって復興へのスピードが異なる事も分かった。
メディアへの露出度、機能としての重要性により異なるようであった。
また、今、噂として挙げられている「近い将来に東北地方で大地震がもう一度来る。」
この噂が一部の方の復興へのモチベーションを下げていた。

地震後の二次災害が、阪神大震災と東日本大震災では大きく違った。
阪神大震災の「火災」が今回の「津波」にあたり、こいつがとんでもない被害を生んでいた。



でも、現地の方はやっぱり元気やった。コンビニの店員さんはとても親切で、
すれ違う土方の兄ちゃんはタバコふかして思いっきり笑っていた。



つまるところ、現地は少しずつかもしれへんけど復興に進んでいる。
1秒1秒誰かしらが復興へ向けて頑張っているからいつか復興する。
神戸の街がとても綺麗な風景のように、東北の綺麗な風景が見られる。

じゃあ、これを早めるには?一番小さな力は僕が働く事=ボランティア。


2日目のボランティアに対する意味を持つ事が出来た1日やった。





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